
福間 嵩伊智
スタイリスト
1975年6月3日生まれ
福岡県出身
上京の動機は一般的な就職でした。
なぜか地元になじめず、県外就職したく、 どうせなら東京行こうと考えたわけです。
出不精のくせに地元はつまらない場所だと嘆いてました。
就職は品川でしたが、寮は横浜でした。
僕はてっきり横浜→ 品川を行ったり来たりするものだと思っていたのですが違いました (笑)
とにかく出張業務が多く、 横浜の寮に帰ってこられない期間が多かったのです。
一年中出張をしながら、 時々誰も居ない独身寮に帰るという生活になかなか馴染めず、
僕の生活の拠点は何処なんだろう?と考え、
業務内容も自分には合わないなぁと思ってみたところで、
他になにが出来るわけでも無く、 どうして良いかわからず孤独でした。
どうやってこの状況から抜け出すか?漠然と考えてました。
広島に出張中に知り合えた方に悩みを打ち明けると「 私のお勧めの本」を紹介されます。
僕にとっての転機はまずこの一冊の本です。
加藤諦三さんの著書「”青い鳥”を探しすぎる心理」
今でも大切にに持ってます、 当時は何度も読み返して自分を励ましていました。
僕的にはあの頃出合えた本の中で、一番勇気をもらえた一冊です。
この本と出合えて、 辞めると決めた仕事にもより集中して向き合うことが出来ました。
「エネルギーのある人は今を大事にする」 本の中の言葉の一つです。
もう一つの転機は寮の近くの美容院。
僕は美容院に限らず知らないところに行くのは苦手です。
なんかジロジロ見られてる感じがして緊張するし、
髪型の経験値も少ないから、したい髪型とかわからないし、
大体、どんな髪型にしたいとかやんわり要望があっても、 具体的に伝えられないので質問されても困る。
なので髪が伸びきってどうにもならなくなってから仕方なく行って た感じでした。
あるときいつものように髪を切りに行くと、
見なれないお姉さんが担当で「どうしたいの?」 と聞いてくるのです、
「髪を伸ばしたいです」と答えると「どう伸ばしたいのか? やりたい髪型は?」と聞いてきたんです。
僕の適当な要望にたいしてズバッと突っ込んでくるんですね、 それじゃよくわからんと!
ビックリしてしまったんですが、 その時の仕上がりはちょっとやってみたいなと思ってた髪型になっ たんです。
時間にしたら3分もかからないやりとりだったのですが、 とても印象に残りました。
本人がどのような気持ちで質問してきたかはわからなかったのです が、 時々帰るだけの横浜で唯一の行きつけと言えばこの美容院くらいで す。
その時は親身になって話を聞いてもらえたと思いました、 別に何かの期待をもって美容院に行ったわけではなかったので、
お会計をして外に出た後、 寮に戻りながらうれしい気分になれました。
(ちなみにその髪型とはただのボブです!)
しかし次に行ったときは見かけず、 いつも切ってくれるお兄さんが、
このサロンのオーナーの娘さんでいつもはアメリカで美容師をして ると教えてくれました。
アメリカ育ちなのであんな感じなんだと。
その後、お兄さんと話をするようになり、 今の仕事を続けることに疑問があること、
美容師の仕事に興味が出てきてることなどを打ち明けました。
しだいにお兄さんとの話が楽しみになり、 カットに伺う数日前に自分でカラーリング( おそらくブリーチ単体)して行ったんですね。
自分で染めたのか?と聞かれたので「はい」と答えると「 上手いじゃん!」と褒められたんです。
「普通は根元の処理が難しいんだよ、 こんなにきれいに染まってて凄いね」と。
当時はよく意味もわからず、 セルフカラーを怒られるかなとも予想してたのですが逆に褒められ て、あの瞬間は嬉しかった!
その日の帰りはルンルンでサロンを後にしました、 二十歳くらいですから単純です。
出張が多くて、 あまり人との交流が増えない職場環境で悩んでた僕は、
一つの場所で働きたい、 沢山の人と関わりを持てる仕事がしたいと徐々に美容師に惹かれて いったのだと思います。
お兄さんに色々と質問していくうちに専門学校の話になり、 再来年からは制度が変わる事を教えてもらいました。
インターン制度がなくなると学校の時間が長くなり結果学費がかさ むよと。
「今からでも美容師なれますかね?」
と聞いたら「全然問題ない、やるなら早いほうがいい」 と背中を押してもらって美容師になることを決心しました。
思い切って会社を辞め、専門学校に夜間で通いました。
毎月の学費と家賃を捻出するのはかなりハードで専門時代の平均睡 眠時間は3〜4時間弱ってとこでした。
健康保険も払ってなかったので睡眠不足から免疫が下がって脇腹に 帯状疱疹が出来たときは辛かったです。
あの痛みとかゆみはあやうく保険外で病院に行きそうになりました が、ギリギリで耐えました。(脇腹に跡がうっすら残ってます)
それでも最後の方はお金が追いつかず春休みはコンビニの配送の仕 事を、
朝・昼・晩・ 深夜とこなし隙間時間にトラックで寝て銭湯に行くという始末です 。
卒業する頃には髪が薄くなり今から美容師が始まるのにこれはマズ いと恐怖したこともありました。
(睡眠ほんとに大事ですね。その後、髪は復活しました)
無事就職出来てからは毎日ほんとに楽しかったです。
夜の練習なんて専門学校時代の寝る時間が無い地獄に比べたら、 周りのみんなが辛そうにしてるのが意味不明だった。
サロンワーク後の練習時間が、毎日待ち遠しかった。 遅くまで練習しても十分寝る時間がある生活。
ただ、すぐに深刻な症状が襲ってきたのです。 手荒れに悩まされることになるのです。
夜寝てると突如頭が猛烈に痒くて目が覚めます。
痒くて仕方なくてシャンプーしますが全く収まりません、 朝まで眠れずにウトウトしながら過ごし、 次の日サロンに出勤すると顔も腫れていました。
頭皮は掻きむしってズタズタで、 なにが起こったか先輩達もオーナーも誰もわかりませんでした。( 酒の飲み過ぎだと言われました)
当時は僕も関連性が全くわからなかったので気がつかなかったので すが、実は前の夜、練習の後にカラーリングをしてるんです。
美容師になって1年目に早くもジアミンアレルギーを発症した瞬間 でした。
ジアミン(PPD) は通常のアルカリカラーなどに広く用いられる一般的な染料です。
接触アレルゲンに分類されていて、 まれにカブレなどのアレルギー症状を起こします。
しかしジアミンアレルギーだと認識できるのはもう少し先のことで す。
ジアミン(PPD)
接触アレルゲンに分類されていて、
しかしジアミンアレルギーだと認識できるのはもう少し先のことで
1年目が終わる頃には年齢を意識するようになっていきます。 23歳の秋に専門を卒業している僕は同期と4年強の時間差がある わけです。
同年齢の美容師でスタイリストに昇格している者も当然居ます。
同期に負けたくないとの焦りからサロンワークの後の練習にも圧力 をかけていき手荒れは深刻度を増します。
そしてついには爪が生えてこなくなる異常事態に!
手荒れが進みすぎて爪が乳歯の生え替わりのようにグラグラと抜け 落ちてしまいそうになってきたのです。
爪の根元には肉が盛り上がって出てきます。本当に怖かったです。
当時からいろんな皮膚科に行ってましたが塗り薬はもらっても飲み 薬はほとんどもらわなかったんですね。
飲み薬が効くとも全く考えなかった。
爪がグラグラしてることに恐怖して皮膚科を受診するとアレルギー の飲み薬を処方されました。
とにかく怖くて藁にもすがる気持ちでハイペースで薬を飲んでると 、なんと手荒れが治ったんです!
その時やっと僕は自分の手荒れがジアミンアレルギーだって完璧に 認識出来ました。
手荒れは酷かったけど、 それでも美容師をやめたいとの発想には全くなりませんでした。
サロンワークで日々お客様に再会出来る楽しさと、 手荒れの辛さは関連性が無いようです。
そして僕と同じジアミンアレルギーで困ってる方が一定数いること を知ります。
気軽に白髪染めを出来なくなる不便さと、 強烈なカブレでカラーリングに恐怖を感じる状態。
美容院でカラーを不用意に進められ何度も辛い思いをされた話も聞 きました。
そうだ、僕はそんな人達の気持ちが理解できる!
普通のカラーリングが出来ない不便さをわかってあげられるじゃな いか。
簡単ではないけれど、「 染料アレルギーがあってもカラーリングに困らない専門サロンを作 ろう」と。
独立への動機が自身の染料アレルギーなのですから世の中わかりま せん。
31歳の時、ついに待望の自分のサロンを持つことが出来て、 サロンワークはさらに楽しいことにレベルアップしました!
もちろん、 未経験の経営という複雑で高度な課題もさまざま起こりますが、 僕をどんなときも助けてくれるのはサロンワークです。
お客様との出会い、 スタッフとの出会いが奇跡的なことなんだと最近心から思えるよう になってきました。
これからも「お客様の生涯の相談役」 となれるように日々努力していきたいと考えております。
何かお困りのことがございましたらいつでもご連絡ください!
多趣味で、なんでも楽しめますが、強いていえば、、、
★釣り・キャンプ(なかなか行く機会がないですが)
★マリンスポーツ(ジェットスキーの免許持ってます)
★テニス(中高六年やってました、一番好きかも!)
★ドライブ(目的なくダラダラ走れないことが欠点)
★読書、映画、筋トレ(生活のルーチンです)
★スキー(年に一度は行きたいですね)
★料理(お魚捌けます!)
★活け花(草月流)作品はこちらからどうぞ